日本の十代向けの作品によくある展開が、「友情の力」で全てを解決する、というものがある。
こうした展開にいちゃもんを付けたがる人たちが気づいていないのは、「友情の力」もしくは他者とのつながりによって僕たちの人生が成り立っているということだ。
この世界は、自分以外の誰かの存在があってこそだ。こういうメッセージの主な対象である十代の若者たちでさえ、「友情」や他の人たちとのつながりを「低俗な物語」とみなし、卒業してしまう。そしてより高度な読み物、つまり文学へと進むものべきだと言われてきたからだ。
しかし、そんな過程と距離を取ることができた人は、最も称賛される文学作品——ドストエフスキー、チェーホフ、トルストイの作品たちである——が、結局のところ、他者に自らを捧げることで救われる物語であることに気づく。
こういった展開を受け入れられない人たちは、巨大ロボットアニメや、五十時間にも及ぶRPGの結末がいつも、キャラクターたちが団結し「友情の力」で、凶悪な敵、たとえば政治指導者、狂った幼馴染、その神々を倒す、ということをどこか疑っている人たちだ。
「くだらない終わり方だな」と思いながら、その物語に費やした時間や、その間に抱いた興奮が、安っぽい道徳観で台無しになったことをネットに向かってつぶやく。
でもそんな人たちこそ、自分のこれまでの人間関係を見つめ直し、「僕は友達と一緒に神を倒せるだろうか」と自問すべきだ。そして「いや、人間関係には満足してるし、神を倒すなんて予定はないから関係ない」と思ったそこのあなたに伝えたい。その自信は実は間違ってるかもしれない。
とにかく、僕は友情について書きたい。
というのも、これは僕が人生を通して苦しんできたことであり、ようやくそれを、純粋な楽しみとして捉えられるようになったからだ。そうなるまでは、苦悩と不安の無限ループの原因でしかなかった。
この「友情」という概念を真剣に考えるきっかけをくれたのが、PS2ソフト「ペルソナ4」だった。このゲームと出会ったきっかけは、僕よりも年上で、ゲームのセンスが合う友達が勧めてくれたのきっかけだ。その人が勧めるものには間違いがないと信じていた十三歳の僕は、ペルソナ4をまるで宝物のように扱い、その主人公の行動を真似することにした。(その友達へのアピールだったのか、それとも、自分の不安を隠すための行動だったかについては、ここで論じないことにする。)
ペルソナ4に僕が惹かれたのは、デザインが魅力的だと初めて思ったからでもなく、ポケモンの難易度が高くなったような展開みたいな感じだったからでもない。
英語版でキャラクターがFuckやShitを言っていたことも影響の一部といえるかもしれないけど、それよりも、個性豊かで多様なキャラクターたちが登場し、それぞれが現実的な悩みを抱えていたことが大きかった。そして、最も興味深いところは、「コミュ」と呼ばれる仕組みを通じて、一人ひとりと関わることができるということだった。
知らない人のために説明すると、「コミュ」システムとは、ペルソナシリーズのストーリーを進める上で用意されている、小さなイベントのようなもので、プレイする人は限られた時間をダンジョンでの戦闘に励むか、仲間たちと有意義な時間を過ごすかを選ぶことになる。その仲間と過ごすことを、「コミュ」システムと呼ぶ。
それぞれのキャラには10レベルあって、進めるごとに彼らの私生活や個人的な物語が少しずつ明かされていく。そして、メインストーリーの中で彼らの感情に基づく行動は、プレイヤーが個人的に築いた関係性によって、さらに深みを増すことになる。どのキャラクターのどんな一面を知ることになるかは、プレイヤーが誰に興味を持ち、誰に時間を割くかによって変わるので、ゲームをする人によって体験が変わるというのがおもろい。
僕にとっては、これこそがこのゲームのメインテーマのようなものだった。
僕と同じような意見の人は実はたくさんいる。
現実であまり友達がいない人や、現実での友人関係に不満がある人は、「ペルソナ」シリーズをプレイすることで、「友達がいる」という感覚を味わうことができるからだ。
YouTubeにアップされたこのゲームのBGMのコメント欄を見ると、「現実の人生が『ペルソナ』ほど面白くない」と嘆く人や、「ゲームの中の自分にはなれない」とぼやく人たちの声が溢れている。
僕も思春期の頃に同じように感じていた。ただ、その具体的な話をここで書いても仕方がない。僕も小学校の頃に苦労したことがあるし、同世代の人とうまく関われなかった経験がある人なら、誰でもあの辛さや苦しみを知っているはずだ。だから、僕も君と同じことを経験した人だと想像してくれたらいい。
「ペルソナ4」のキャラクターたちが僕にとって特別だったのは、彼らがまるで自分の友達のように感じられたからというよりも、彼らが実際に友達であったことのほうが大きかった。
僕がゲームをやっていない時でも彼らは彼らで遊んでいたことを会話の中で匂わせたり、自分が築いた関係とは別に、彼ら自身のやり方で互いを理解し合っていく。そうした描写のおかげで、パーティのメンバーがまるで本当に生きているかのように感じられた。これは現実では味わったことのない感覚だった。
もちろん当時、僕に友達が全くいなかったわけではない。でも、僕の友達との関係はすべて「一対一の関係」だった。誰かと遊ぶときはいつも一対一だし、しかもその相手はそれぞれ違う状況で知り合った人ばかりだった。たとえば学校の友人、家族ぐるみの付き合いがある子、オンラインで知り合った人、テニス教室で出会った人、別の町に住んでいる人……など。
グループというものに馴染みがなくて、自分がそこに混ざっている様子を想像することもできなかった。たとえ勇気をだしてやってみようとしても、自分だけが浮いているような感覚になった。それは中学のアニメクラブでも、同じだった。
(ちなみに2009年当時、「ペルソナ」シリーズは今ほど有名ではなかったので、僕がこのゲームについて話すのは、「ファイナルファンタジー」について話すほどイケてるものじゃなかった。もう随分昔の話だけど。)
とにかく「ペルソナ4」に出てくる友情物語は、僕にとって一種の目標となった。「本当の友情」とはこういうものだと考え、それを手に入れることができたなら、自分も「普通の人間」になれたということだと思っていた。
そのために僕は「ペルソナ4」の主人公を参考にすることにした。
どんな選択肢を選んでも、周囲のキャラクターたちは常に受け入れてくれる。そんな存在になれたら、きっと僕も同じように周りから受け入れられるはずだと信じて疑わなかった。だから、その主人公のように自信を持って自分の意見を言うようにしたり、自分が本当に着たいと思う服を着るようにしたりした。結果として、家族で撮った写真には薄手のH&Mのカーディガンに赤いパンツ、スエードのヒールブーツという姿の僕が残ることになったわけだけど……。15歳って、本当に大変だ。
でももちろん、現実はRPGとは違う。人間関係を十段階のイベントに分けて進めていけば「真の友情」に到達できる、なんてことはない。友情の証として強力な悪魔を手に入れ、その後二度とその相手と遊ばなくなる——そんな仕組みは、現実には存在しないのだ。
高校時代のことはあまり思い出せないが、今思うと当時の僕は頑固で話しにくいイメージがあったと思う。だからこそ、「コミュ」のイベントとして認識できない経験はすべて拒絶し、一人で静かな日々を送っていた。中学時代と比べれば、高校生活はマシだったけど、僕が思い描いた理想の友情には近づけなかった。
でも平気だった。なぜなら小学生の頃、ある先生が「本当の仲間に出会えるのは大学に入ってからだよ」と言ってくれたからだ。当時の僕にとって、それはまだ7年も先の未来の話だったけど、たとえ高校生活がうまくいかなくても、あとほんの数年すれば「僕の仲間たち」と出会えるから大丈夫。そう、僕だけの「ペルソナ4」が待っているからだ。
でも大学に入ったからといって、人々の見る目が変わり、突然「ちょっと変わったクラスメート」に対して思いやりを持つようになるなんてことはない。むしろ、長く学校にいるほどバカになってく人だっている。さらに僕は、間違った学校の間違った学部を選んでしまった。そして、いくつもの紆余曲折を経た結果、気がつけば僕は交換留学で、日本の東京にいた。
この1年間で、他の人が僕のことを表現するのによく使っていた言葉は「意地悪」だった。
たぶん、そう言われてしまってたのは、今までとは比べられないほどずっと多くの人と関わらなければならなかったせいだ。地元では実家暮らしだったし、キャンパスを出ればそこで終わり、な関係だった。
でも日本では、同じ寮に住む何にも知らない外国人たちと四六時中顔を合わせるはめになったし、彼らは僕が東アジアについて勉強してきたことを頼りにしていた。それはまるで自分たちが迷い込んだこの恐ろしい国で、唯一の光であるかのような扱いだった。彼らは、日本では「日本」が実際には「ジャパン」と呼ばれていないことすら、知らないような奴らばっかりだった。でも当時の僕は今ほど日本語ができたわけではないし、彼らと同じく右も左も分からない状態だった。それでも、日本やその文化に少し詳しいというだけで、人生で初めて「ちょっとカッコいいキャラ」になれたような気がしていた。だからこそ、一緒に暮らす人たちに、自分が思ったことをはっきり言うようにしていた。どうせ一年しかいないんだから、気に入らない人間はさっさと選別して、ヨーロッパ旅行をするときに泊めてくれそうな相手を見極めたほうが得だろうと考えていた。
たくさんの人と友達になったし、その場の空気を読んで友達のふりをしなければならない相手もいた。人を傷つけてしまったと思うこともあれば、ついに周りの人たちが僕の正体を見抜き、「少し漢字が読めるだけのヤツ」だと見限られたんじゃないかと思ったこともあった。それでも、楽しい時間もたくさんあった。特に、留学して間もない頃のある出来事をよく覚えている。僕たちはまだそこまでお互いを知らなかったけど、みんなで居酒屋へ向かおうとしていた。そのとき、僕は財布を部屋に忘れたことに気づいた。ちょうど全員が寮を出たところで、僕は「ちょっと待って!」と言いながら、急いで部屋へ戻った。エレベーターに乗る頃、中学時代の記憶が一気に蘇った。友達だと思っていた人たちが、僕が弁当袋を片付けるのを待ってくれなかったこと。そこに僕がいるかどうかすら気にしてくれなかったこと。トイレの個室に取り残されたこと。存在を忘れられてしまったこと。だから、僕は下に戻ったら、一緒に行くはずのグループはそこで僕のことを待っていないだろうと思っていた。仕方なく居酒屋で落ち合い、何もなかったふりをするしかないのだろうな、とか思っていた。
でもありがたいことに、その予想は外れた。みんなはまだそこにいて、笑顔で僕を迎えてくれた。その瞬間、僕に何か重大な欠陥があるわけではなかったのだと悟った。
今思うとバカみたいだけど、僕は人間性を測る物差しとして「ペルソナ4」を使っていた。
RPGのデートシステムを基準に、人間関係を判断することなどできるはずがない。それは現実を極端に単純化したものであり、あれでは人間同士の関わりのほんの一パーセントしかわからない。実際、僕が「コミュランクを上げた」と思っていた人の中には、その後関係が悪化して逆転した相手もいれば、何度も不本意な遭遇を重ねた結果、むしろマイナスに突入した相手もいた。つまり僕は、自分の人間関係を、「女性と真の友情を築いたことがない」と公言している人が作ったゲームのシステムに基づいて測っていたのだ。ただ飲みに行くだけで、何かが起こるはずだと期待するのは、ちょっとやりすぎな気もする。
そしてある日、その日はやってきた。留学の8,9ヶ月目。友達の部屋で5,6人で座って飲んでいた時のことだった。僕は、トイレの時間をちょっと面白くするために使っていたUSBディスコライトを差し込んだ。すると、部屋いい雰囲気になって、みんなが笑っていた。他の友達がBluetoothのスピーカーをつないで、僕たちはただビールとお菓子を楽しみながら、初恋の話を順番に語り合っていた。誰かがスペインの綺麗な秋の日の思い出をしている最中、僕は突然に気がついた。
その部屋にいた全員が僕の友達だったし、彼らとは一対一でも、グループでも遊んだことがあった。彼ら同士も僕がいない時にも遊んでるみたいだったし、僕たちは、お互いを深く知っていた。それはまるで「ペルソナ4」じゃないか!
僕たちは、それぞれまったく異なる理由でここにいたけど、「日本で暮らす」という同じ特別な経験を共に乗り越えた仲間だからこそ、生まれた絆なんだ!
しかし、そのことに気づいた瞬間、それは幻のようにするりと消えてしまった。まるで、最初から何の意味もなかったみたいだ。そして、こんな単純なものをずっと求め続けていた自分が、なんだか馬鹿みたいに思えた。あの小学五年生の先生が約束してくれたように、最初から自分らしくしていれば、きっと自然と"自分の居場所"を見つけられたのに。
問題は、こんなにもあまりにも当たり前のことなのに、理解するまでに何年もかかり、それが頭に叩き込まれるまで気づけないということだ。これまでの偉大な人たちは、無理せずありのままで自分自身で過ごしてきただけだ。だからこそ、あなたも同じようにすれば、少しはうまくいくはずだ。
僕がこれを理解するには、異常なほど「ペルソナ4」にのめり込み、ホットトピックのきついスキニージーンズを何本も履きつぶし、日本での一年間を過ごす必要があった。
そしてあなたがこのことを本当に理解するためには、同じくらい壮大で、同じくらい馬鹿げたことを経験する必要がある。でもそれは人それぞれだし、僕にできることは僕の経験したことを書くことだけだ。
この経験の後にも、この気持ちを再確認させてくれるような出来事がいくつかあったので、それについても書こうと思っていた。たとえば、Mode Goneの設立や、昨年東京に戻る前に開いたお別れパーティーのこと。
お別れパーティーは特に感動的で、友達のみんなが僕の実家に集まってくれた。その中にはアメリカから来てくれた人もいた。そして、僕は一人ひとりに自分の言葉で思いを伝えることができたし、すべてを自分の納得のいく形で終えることができたのだった。
僕はみんなから好かれてると感じたし、同じようにみんなのことを好きだった。子供の頃に何度も僕を悩ませてきた「自分のほうが相手を大事にしすぎているのではないか?」という不安は、もうなかった。
結局、どれも「ペルソナ4」の話と同じことを証明しているのだ。本物の友情は確かに存在するし、それはきっとどこかで見つけられる。
これらすべての経験のお陰で、「仲間の力で神を倒す」という見方が変わった。なぜなら、そもそも神や国家や教会といった、僕たちが小馬鹿にしながらも多くの時間をかけてきた、そういう物語の中の何かを倒すことは本質ではないということに気付いたからだ。本当に倒すべきなのは、「こんな展開はバカバカしい」と斜に構えた自分自身だ。それはつまり、外に出て、人生を謳歌して、他人と正直に、泥臭く向き合えと心のどこかで思ってるってことだ。そして、それこそがあらゆる芸術作品が僕たちに期待してることなんだ。
もしかしてこの話にそろそろ飽きてるかもしれないけど、あえて言おう。僕は友達に救われた。これは紛れもない事実だし、君のこともきっと救うはずだ。この記事によって救われるのか、「ペルソナ4」のようなゲームによるものなのかはわからない。でも、君が「平均的な日本のRPGより自分のほうがマシだ」みたいなことをTwitterにつぶやいたりするってことは、遅かれ早かれ僕のように救われる日が来るはずだ。
一度この画面を閉じてから、またもう一度この投稿を読んでみてほしい。理解できる能力が君に備わってると僕は信じてるし、君にはできるはずだ。
翻訳:神原桃子
投稿日:2023年9月13日
日本語版:2025年2月19日
監修:アマスヤ・デニズ