「MOTHER2」について言えるのは、その意味をどんなふうに説明しようとしても、決して理解できることのないゲームだということだ。でもそれと同時に、僕たちはみんな「なんか、この感じ、わかる」って思うんだ。
じゃあ、「わからない」人たちはどうしたらいいのか? 実を言うと、僕もかつてはこのゲームをずっと見てるだけの人間で、「そのうちやるべきなんだろうな」と思っていただけだった。世の中には、このゲームがどれだけ心を動かしたかを語るブログが無数にある。でも、そういう記事を読んでも実際にやってみようという気にはならなかったし、そういう記事を書いている人は読者のためというより、自分のために書いているように感じた。そんな僕はこの記事を書きながら、母のことを思い浮かべている。この話を母にどう説明すればいいだろうか? 高校生の時、車の助手席で「The Last of Usはダメなゲームで、Killer7はそうじゃない」とか、「銀河英雄伝説こそが『スター・ウォーズ』というにふさわしい」とか、「ポケモンのキャラではダイゴが一番かっこいい」とか、そういう話を何度母にしたかわからない。たぶん、ほとんど母は右から左へ流してたんだろうけど、論理的に理解してもらうよりも、感情的なレベルでわかってもらうことのほうが大事だった。ただ、「これについて強い思い入れがあるし、それが僕にとって大切なんだ」ということを知ってほしかった。
そう考えると、今回取り上げるゲームのタイトルが「MOTHER2」なのは、なんとも象徴的だろう。このゲームはまさに、「世界をどうにか理解して、それを母親に伝えようとする物語」なのだから。
僕は、自分の故郷からとても、とても遠く離れた場所にいる人間だ。あまりにも遠くて、物事が違いすぎて、あまり深く考えずに受け入れていかなければならないことがある。母国語とはまったく違う言語を使いながら、日本社会のジグソーパズルの中で自分の居場所を探している時には、「MOTHER2」によくある不条理と同じくらいのものを感じる。隕石があなたの街に落ちてきた?問題ない。未来から来た知性を持つハチが、あなたが世界を救う運命だと言い放った?孤独な惑星の存在が、君に嫉妬してるマッシュルームカットのやつを地球上の代理人に選んで嫌がらせしてくる? …ああ、その人、前に会ったことがあるよ、確かに。
最近、母に電話するたびに、僕は日本での生活の些細なことを説明している。ゴミの分別方法だとか、果物がカナダよりどれだけ高いかだとか、引っ越しの際に必要な「礼金」の概念だとか、仕事に「時間通り」行くというのが実際には早めに出勤することだとか。これらはどれも、ありふれていても同時に不条理で、背景に溶け込んでいて、ある日、帰国している誰かが自動販売機のことをInstagramで送ってきて、「本当に日本ってそんなにワイルドでクレイジーなの?」と聞いてくる。社会秩序というものは学ぶものではなく、調整するものだというのはまさにその通りで、カナダの社会秩序の考え方は日本のものとは全く異なり、トルコの社会秩序の考え方は、よくいる日本人にとってはもはやディストピアに感じられるかもしれない。
僕は故郷を離れて遠くに行くという経験をしたからこそ、「MOTHER2」に対して何かを感じたのだ。もし僕が、そのストーリーを「解決すべきルービックキューブ」としか見られなかったあの頃(つまり地下室にこもった十代の頃)にどうにかしてゲームをクリアしようとしていたら、それはきっと「スーパースマッシュブラザーズの聖典」に基づくゲーム「カノン」のチェックリストにすぎなかっただろう。ようやくそれをやってみてわかった。それは、母親から遠く離れた場所にいることについてのゲームだった。
このゲームの英語版では、イーグルランドという架空のアメリカを巡る4人の子供たちが、「Sanctuary」と呼ばれる神聖な場所を探して、最終的にギーグという宇宙人を倒すためのエネルギーを得るという内容だ。でも僕はこのゲームを日本語でやったので、ここには少し言語的な違いがあることを触れておく価値がある。この「Sanctuary」はオリジナル版では、「おまえのばしょ」と呼ばれていて、特に「おまえ」に注目するべきだ。これは他の人に対して使うのは失礼だが、時には友達同士で親しみを込めて、もしくは上司から部下へちょっとバカにした感じを込めて使う言い方だ。特に独特なのが、父親から息子に向かってのみ、親しみを込めて使える場合もある。だからこそ、主人公があちこちにある「おまえのばしょ」に到達するたびに、子供時代の何かを思い出す仕組みになっている。それは好きな食べ物の匂いだったり、父親に赤ん坊として抱かれている思い出だったりする。「おまえのばしょ」は彼がこれまでに行ったことのない場所なのに、そこには主人公自身の存在に深く根ざした何かがあって、どうしてもそれについて何かを感じてしまう。
「おまえのばしょ」: それは「おまえ」のためだけの場所、ここでいう「おまえ」は、父親から息子への呼びかけのようなものだ。自分だけの場所を世界に刻み込まなければならない、「おまえ」のためだけの場所はどこにもない。東京では、カフェやライブハウス、バーなどで新しい人や新しい出来事に恵まれることがよくある。新しい国に住むことは、ワクワクする一方で孤独でもあり、文化や言語、歴史にどれだけ精通していても、その場所に「馴染む」くらいまで到達できるのは、勇気のある人に限られる。だが、時々、親しみや懐かしさを感じる何かや人に出会うことがある。それは、自分と同じようにその社会に自分をはめ込まずに表現しようとしている別の外国人であることもあり、その時に感じる独特の安心感がある。カナダ人にもトルコ人にも出会ったけれど、国籍は関係ない。それは、ただあなたのためだけの正しい人々、正しい感情、正しい瞬間を見つけることだ。
それは、まったく気にもとめなかった瞬間に、思わずあなたの心が条件反射のように動いてしまう、その時だ。たとえば、父の車の匂いや、母の料理の香り、学校の近くに停まっていたアイスクリームトラックで買ったアイスの味が、不思議と東京に居ながら思い出されることがある。年上の誰かが肩に手を置いてくれると、それが父の手のように感じることもある。たとえそれをここに書くのが恥ずかしいと感じていても。そうした些細な仕草や場所の中に、「幼少期」の輪郭を見出すことができる。そしてその瞬間に、自分自身の場所、自分だけの「おまえのばしょ」を見つける。たとえそれが、誰かの優しい笑顔だったり、雨上がりのアスファルトの匂いだったりすることもあるんだ。
ゲームの中に、どうしても書きたい「おまえのばしょ」がある。クリアしてから何ヶ月も経つのに、まだ頭から離れない場所、ルミネ・ホールだ。ここのボスを倒した後、みんなは穴に落ち、気がつくとある廊下にいる。すると、目の前の壁が突然光り出し、普段は無口な主人公の心の声がそこに映し出される。彼自身も、それを見て戸惑う。
「ぼくはもうすぐ・・・ぼくはもうすぐ・・・」
そして、少し怖くなる。
この言葉は、僕にとっても不気味だった。でもなぜだろう? もうすぐ、何になる? 誰になる? 何に変わる?
ぼくはもうすぐかわってくる。
ぼくはもうすぐりそうのじぶんになる。
ぼくはもうすぐべつじんになる。
ぼくはもうすぐこいにおちる。
ぼくはもうすぐかわる。
ぼくはもうすぐしぬ。
「これは ぼくの こころが もじに なっているのだろうか? それとも...」と、ルミネホールが語る。
壁に映し出されているのは主人公の内なる思いだが、それは同時に僕自身のものでもあった。ブラウン管のスキャンラインがいつもより揺らめいて見え、ゲームをやっている自分と画面との間に生まれる特別な関係が、部屋の空気を重くする。画面に映るのは主人公の心の声だけではなくて、僕のものでもある。それも、そのキャラクターに自分の名前をカタカナでつけているからこそ、なおさらそう感じられるんだ。
スクロールする文字を、一つ一つゆっくりと声に出して読んだ。それはゲームからのメッセージであり、自分自身へのメッセージでもあった。まるで鏡に向かって語りかけるように。ルミネホールとはまさにそんな場所だった。僕の心を映し出す鏡。慎重に作り込まれ、絶妙なタイミングで現れる、終わりへと向かう旅の前に立ちはだかる最後の「おまえのばしょ」。そして、主人公は父親に抱かれる幼い頃のビジョンを見る。その瞬間、僕は初めて、完全な安らぎを感じた。
ここへ引っ越す前、僕はほとんどの持ち物を売り払い、本当に大切なものだけを巨大な軍用グレードのプラスチック製チェストに詰め込んだ。まるで聖櫃を隠すかのように。ポスターをすべて剥がし、コンピューターを解体し、かつて暮らしていた部屋が完全に見知らぬ空間になるようにした。もうあの場所を存在させたくなかった。それは「おまえのばしょ」だった。日本語で読んだときの、まさにそっくりそのままのニュアンスで。中学生であの家に引っ越したとき、父は僕の肩に手を置いてこう言った。”this is your place”.もしそれを日本語で言うなら、「ここはおまえのばしょだ」となっていただろう。あの家で過ごした十数年の間、家具をどれだけ配置換えしても、家具を買い足しても、大切なポスターやアートで壁を埋め尽くしても、友人を呼んでも、映画を観ても、ゲームをしても、恋に破れても、そこが「ぼくのばしょ」だと心から感じることは一度もなかった。確かにそこに住んでいたはずなのに、それを本当に「ぼくの場所」と呼べる確信はなかった。だからこそ、すべてを解体し、何もなかった元の状態に戻すことに、ある種の解放感があった。カナダ、トロントの一角にある、ただの空っぽの四つの壁だ。そしてある日、僕は飛行機に乗り、飛行機に乗って何もなかったように出発した。
飛行機の中で、僕は1997年にカナダへと旅立った両親のことを考える。彼らが置いてきたものは、僕が箱に詰めたアニメフィギュアやビデオゲームなんかとは比べ物にならないほど大きかったはずだ。この飛行機は表向きには僕を「これからの人生」へと運んでいる。でも、僕がしたことといえば、ほんの数通のメールを送るだけだった。それで日本政府がパスポートにスタンプを押してくれた。それなのに、両親はどうやってこれを成し遂げたんだろう? どうやってこんな人生を大きく変える決断をするに至ったんだろう?
ここに来て2年、僕は東京や日本のあらゆる場面で自分なりの道を歩んできた。そして今、この部屋はすっかり僕のものになった。イスタンブールの祖母がくれたタオルやカーペット、テーブルクロス。とうの昔に引っ越してしまった友人たちの写真。コミティアで好きな漫画家さんからもらったイラスト。長い間借りっぱなしになっている本。いつの間にかぐんぐん育って、もうすぐ僕と同じ背丈になりそうな観葉植物。ここが「ぼくのばしょ」だ。そして、ルミネホールが画面の中で僕の心を映し出す。CRTの画面をスクロールして見えてくる言葉が、ずっと探し求めていた「ぼくのばしょ」を完成させるための最後のピースになった。もしかすると、僕の両親も、イスタンブールに「ぼくらのばしょ」を持ったことなんてなかったのかもしれない。
両親が訪ねてきて、数ヶ月後には僕が十代から過ごした家を売ることを告げた。次に帰省するときには、見たことのないアパートと、眠ったことのないベッドが僕を待っていることになる。そう、これが僕の望んだことだった。帰る場所がないこと。育った街に自分の居場所がないこと。けれど、「もし帰ったとしても、もうあの家はない」と聞いたとき、すべてがまったく違うもののように感じられた。僕は「帰る場所を持たない」と強く決意してカナダを離れたはずだった。なのに気がつけば、別の国で生きるというこの選択に、完全に、そして取り返しがつかないほど深く足を踏み入れてしまっていた。
母が話してくれたことを思い出す。1997年、トロント郊外の安いホテルで、アパートも家もなく、どこにも自分たちの居場所がなかったときのこと。駐車場では口論が絶えず、周りでは誰もが聞き慣れないカナダなまりの英語を話している。寒くて、湿っぽくて、文化と歴史が交差し、常に温かさに満ちたイスタンブールとは正反対の場所。長距離通話の料金が高すぎて気軽に実家に電話をかけることもできず、ましてや今のような形でインターネットがあるわけでもない。母は「もうやめて帰ろうか」とさえ考えたと言っていた。それでも「まずは5年間、カナダの市民権を取るまでは続けてみよう」と決め、そこから改めて考えることになった。でも、今こうして振り返ってみると、帰るべき「故郷」なんて、あの時すでになかったのかもしれない。だった祖父母が住んでいたマンションも、もう自分たちが育った場所と同じところにはなかった。両親の居場所は、どこにも属さないわずかな空間だった。それがやがて、二人にとっての「Sanctuary」になり、そしてそこから歩き出したその先に、この僕が生まれたのだ。
両親のホテルから自分のアパートへ歩いて帰る道のりは、いつもと違う感覚があった。現実がじわじわと染み込んでくるにつれて、恐怖のようなものが湧いてくる。もう、ここが僕の「ばしょ」なのだ。好きであろうと、そうでなかろうと。すべての凸凹を受け入れ、理解し、愛する方法を見つけなければならない。かつて「家」と呼んだ場所とは形が違っていても。でも、「家」はトロントにもなく、東京にもない。母がいる場所が「家」なのかもしれない。でも、それだけじゃなくて、自分の輪郭がくっきりと見える場所、それはたとえば札幌で友人の車の後部座席に座っているとき、アムステルダムで友人のマンションのバルコニーに立っているとき、行きつけのバーのおんぼろな木製の椅子に腰掛けているとき、仕事場の向かいでお弁当を手渡してくれるおばあさんの笑顔の中にも、感じることはある。
「MOTHER2」で主人公が戦えなくなる場面がある。そのときはただ、「母親が恋しい」とだけ伝えてくる。セーブするために父親には頻繁に電話をかけるが、母親に電話する機能には特に意味がない、と思っていた僕のようなプレイヤーが、いずれ必ずこの問題に直面する。これに心を動かされた僕は、実際に母に電話をかけ、このことを話した。ちょうど中学生の頃、車の助手席で「ペルソナ4」の話をしていたように。やがて会話は僕の近況に流れていき、最近のことを説明しながら、どこかちぐはぐで、ここに属していないと意識せざるを得ないようなことばかりを母に話す。でも、それらは自然とまとまりを持ち、一つの「僕」という人物像を形作る。まるで母が、「MOTHER2」のお母さんと同じく、理解できるように。
このゲームの物語そのものを考察するのは、きっと意味のないことだ。明確な答えがないから。でも、それでもこの作品は、完全なる意図をもって作られている。そしてプレイヤーにとてもシンプルな問いを投げかける。君は、誰かと本当に繋がったことがあるか?なぜ、君は子供時代の記憶をそのように覚えているのか?君にとって「家」とは何か?
その答えを見つけることこそが、本当のゲームの始まりなのかもしれない。あとは、それを紐解くために、あの独特のユーモアが散りばめられているだけだ。僕自身の答えはこうだ。
「もうすぐ、僕は『家』に辿り着くだろう。でも、今はまだ、その途中にいる」
翻訳:神原桃子
投稿日:2024年11月29日
日本語版:2025年4月13日
監修:アマスヤ・デニズ