彼は狙いを外した。それは単なる事故で、君にも起こりうるようなことだ。海が割れ、否応なく大人になってしまった。それがいいことか悪いことかは分からない。
やがて君も時間を操れるようになるだろう。しかし時間は激しい嵐のように君を取り囲み、君は息苦しくなり、飲み込まれる。
もし君がそこから抜け出せたとしても、(もし抜け出せたら)、すでに手遅れだろう。
君ができることは2つしかない。それは溺れるか泳ぐか。それだけだ。
こういうことは理由もなく、ただ起こる。ときには、それが自分にだけ降りかかるように感じることもある。
悲しみは終わらない。ただひたすら、続いていくだけだ。
「取り返しのつかないことをしてしまった.....」

それから1年後、ペンシルベニア州にあるフィラデルフィアの友達の家に泊まったときのことだ。それはコロナの時で、何かを感じたくてアメリカを長期で旅行した時の終盤だった。
当時の僕は東京で1年間を過ごして、すっかり別人になった気分だった。だから僕はその気持ちを保ちたかった。たとえ面白みに欠けるトロントにいたとしても、東京と同じように刺激に満ちた何かがそこら中にあるふりをしながら過ごすつもりだった。
でもそれから数ヶ月後に、世界が終わった。

フィラデルフィアに住む友達と日本で過ごした1年について話したときのことだ。はるばるフィラデルフィアまで来たのに、大半の時間はドラマを観たり、スマブラをしたりして過ごしている。外は暑すぎて、リバティ・ベル(定番の観光地)を見に行く気にもならない。夜になればようやく少し涼しくなり、近所のコンビニへ行き、酔い潰れるまで飲む。
家に帰れば、世界一強いホワイト・ロシアンを作り、僕たちはまた語り合う。

「"Harsh”ってよく言われたんだよね」
「まあ、わかる気はする」
「まじ?」
「うん、なんていうか….失礼とか、頭ごなしに批判するとかそういうことじゃなくて、君は人に対して基準を持ってるんだろうなって感じ」
「それって"Harsh”と同じじゃない?」
「いや、違うよ。だって、君は本当に気にかけてる人にしかそういうことしないだろ? どうでもいい相手にはそもそも何も言わないし」
「でも、あの寮にいた人の大半には興味なかったよ。それがあそこでの経験を特別なモノにしてる理由かもしれない。嫌味なイギリス人たちと喜んで暮らしたい人なんているわけないけど、僕はそうするしかなかったし」

2人でグラスを傾ける。ウォッカが喉を焼くのを感じた。

「なんかガンダムみたいだな」と友達が咳き込みながら言う。
「つまり?」
「つまり全員であの寮で一緒に生き延びてたってことだろ? まるで ‘日本’ っていう宇宙を漂ってるみたいにさ。あのイギリス人たちはお前にとってのスレッガーだったってことだよ」
「まあ、そう言われたらそうかもな。あの1年で仲良くなった人たちとの関係は、それまでのどんな関係より深いものだったと思えるのは、そういうことなのかも。僕たちは日本という環境に必死に適応しようとしていた哀れな外国人で、それはまるで一緒に生き延びた戦友みたいな感じだったし」
「お前のホワイトベースはあそこだったってことだな」

「機動戦士ガンダム」は一度だけ観たことがある。今回この投稿を書くにあたって見返したりはしなかった。なぜなら、ガンダムを振り返って分析するような形ではなく、今の自分がガンダムについてどう感じているのかを、ありのまま書きたかったからだ。そして、なぜ君も「機動戦士ガンダム」を観るべきなのかを伝えたいと思う。

僕は一生ガンダムを見なくても平気なタイプの人間だった(もしかしたらあなたもそうかもしれない)。世の中にはそういう人も多いだろう。自分の中のガンダムのイメージは歪んだもので、子供の頃にテレビでたまたま観た「SEED」の適当などれか1話、高校時代にTumblr(Instagramのようで、ストーリー機能等がないシンプルなツール)のダッシュボードに流れてきた「新機動戦士ガンダムW」や「鉄血のオルフェンズ」のGIF――そういう断片的なものばかりだった。でもどれも見たところで、興味を持つまでには至らなかったし、むしろ「エヴァはロボットアニメの“脱構築”なんだよね(笑)」みたいなことを言う自称評論家たちは、要するに「エヴァは“平均的な”ロボットアニメ、つまりガンダムを脱構築したんだ」と言いたいのだろう、としか思っていなかった。

そのあと、フィラデルフィアで友達に出会った。この友達から「The Invisiblesというアメコミを読んでみて」と言われた。僕は普段ならアメコミは読まないが、友達のために読んでみることにした。そして、これがめちゃくちゃ面白かった。この作品は、大人になってからの自分の政治観にも大きな影響を与えたと思う。
だから、「機動戦士ガンダム」も観てみることにした。なぜなら、この友達にとってのガンダムが、自分にとっての「.hack」のような存在だったからだ。ちなみに当時の自分が知らなかったことだが、ガンダムには独自のタイムラインが存在する。そして、自分がこれまで名前だけ知っていた「SEED」や「W」、「鉄血のオルフェンズ」は、その本筋とはまったく関係のない作品だった。つまり、自分が「ガンダム」だと思っていたものは、本当のガンダムではなかった。それなら、一度本物を観てみるしかない。

初めて「機動戦士ガンダム」を観たのは、2019年12月のことだった。日本での一年間の留学を終えて、帰国してからまだ数ヶ月しか経っていなかった。ちょうど22歳になったばかりの頃だった。

ガンダムの基本となる話の構造について、話すことにする。ガンダムは、ホワイトベースと呼ばれる戦艦に乗る20歳以下の若者たちが主な主役で、その中の1人が、なぜか最新鋭の軍事兵器をいとも簡単に操縦できてしまう。そして彼らの周りの大人たちは、物語の最初の3話で全員死んでしまう。そして、ホワイトベースの彼らが所属する地球連邦軍は、彼らのことなど気にかける様子もない。こうして、突然大人として生きることを余儀なくされた子供たちが、宇宙を漂う宇宙戦艦の中で敵と向き合うことになる。そして敵は彼らを、他の兵士と何ら変わらないただの「戦力」としか見ていない。
ガンダムを観る気がない人たちがたくさんいることも知っている。その理由の多くは、自分と同じものだった。たとえば「話しや設定が古い」、「シリーズが長い」、「ありがちな展開」、「女性差別っぽい」、「ただの金づる」、「退屈」。その気持ちはよくわかる。まさに僕もそう思っていたから。
でも、それだけの作品なら、どうしてここまでの現象になったのか? どうしてこれほど多くのシリーズを生み出し、日本の共通言語とまで言われるほどの影響力があるのか? どうして今なお愛され続けているのか? もしこのガンダムがプラモデルを売るための仕掛けに過ぎないのだとしたら、それ以上の何かがあるはずがない。つまりガンダムには確かに「それ以上の何か」があるんだ。
だからこそ、ここで伝えたい。ガンダムは本当に良い作品だ。
もしあなたが20歳を過ぎているなら、面白くない仕事をして、寮や激安アパートに住み、クソみたいなルームメイトと付き合い、大したことないバーで酒を飲んで、大して尊敬もできないような人たちとゲームをして、バス停のベンチに座りながら「自分はいったい何をやっているんだ」と考え込んだことがあるはず。
そんなあなたはアムロ・レイだ。つまり、RX-78ガンダムのパイロットだ。
そのどうしようもない状況を乗り越えてきたからこそ、ガンダムを楽しめるってことだ。
それはあなたもまた、ホワイトベースを生き延びてきたってことだから。

そこから1年後、ノルウェイのオスロにいた。そこはホワイト・ベースにいた友達の家で、僕はその床の上で寝てた。彼は引っ越しの最中だったにも関わらず、泊めてくれた。彼のアパートで過ごす最後の数週間、俺は板ガムみたいに細いマットレスで寝た。(まあ、タダの宿だし、文句は言わない。)

「なんかすごいよな」と、友達が言った。
「何が?」
「君がノルウェイにある僕の家にいることだよ」
「他の国に住んでる友達に会いに行くのがそんなに変なこと?」
「うん、でも君はただの友達じゃないから」
彼が言いたかったのは、多分、あの場所で築かれた友情には特別なものがあるってことが言いたかったんだと思う。僕たちは、留学先でできた友人同士だから、パリでキャピキャピしている白人女子たちとは違うし、日本でサバイバルしていた俺たちとも違う。でもたしかに、特別な何かがあった。

その瞬間、僕は「Zガンダム」の続編シリーズで描かれるホワイトベースの元クルーたちの静かな会話を思い出した。そして、ようやく、僕にとってガンダムが特別な理由を理解した。

インターネットの中で共に育った人なら、こういう人生を変えるような作品に出会ったことがあるはずだ。たとえば「エヴァンゲリオン」、「おやすみプンプン」、「惡の華」、もしかしたら「Homestuck」だっていう人もいるかもしれない。年を重ねるにつれ、そんな作品にはもう出会えないような気がしていた。自分の内面をまざまざと映し出すような物語、画面の主人公を見ながら「こいつは俺じゃん」と叫びたくなるような旅路。

ノルウェーの酒を6杯あおった頃、僕は気づいた。大人になるための最後の扉として、自分を映し出してくれた物語がある。
それは、思春期を生き延びるためのプライドを捨てて、大人として生きるための妥協を学ぶ道のりを完璧に描いた物語だった。
つまり、僕が「子供」の時に最後に見た作品はガンダムだった。

あの寮では、「こいつは無理だな」と思う人間がたくさんいた。でも、1年間毎日彼らと生活しなければならなかった。プライベートが守られるだけのスペースはあったけど、あんな部屋に引きこもり続けていたら頭がおかしくなるような狭さだった。結局、共有のキッチンや廊下、共用スペースや喫煙所に足を運ばざるを得ない。それはつまり、避けたかった奴らと話しをしなければならないということになる。
それまでの人生なら、家に帰れば、嫌なやつと関わらずにいられた。でも、もうそれはできない。なぜなら、そこが僕の「家」だったから。人生をひっくり返されるような出来事を経験した日もあるし、涙とアルコールにまみれた夜を過ごしたこともあった。そんな日の翌朝、目の前にいるのは「なんで『化物語』が嫌いなんだ?」と絡んでくる同居人だったりする。これこそが、ガンダムが僕に生きる意味を持たせてくれた理由だった。一人になれない場所で生きること。そこにいる人間を好きになれなくても、生きていかなきゃいけないこと。ガンダムはそれを教えてくれた。

ホワイトベースとは、20代の入口そのものだ。それは日本の成長物語におけるひとつの基礎的な型になっている。「ペルソナ3」の巌戸台寮、NERVの一番奥、「カウボーイビバップ」の回るファンの下、さらには「ふしぎの海のナディア」のノーチラス号の中にも、それが見える瞬間がある。それは1970年代のピカピカした戦艦とはかなり対照的なものだった。当時の戦艦は、どんな反乱軍が待ち構えていようと、最後には「共通の大義」でまとまり、全員が団結するのがあるあるだった。でも、ホワイトベースは違う。もし、あなたの人生にホワイトベースがなかったのなら、今すぐこの記事を閉じて、新しい環境へ飛び込んだほうがいい。まだ成長の余地はあるから、学校に戻って奨学金を申請して、中古ゲーム屋に行って「バイトは募集してますか?」と聞こう。
でも、もしあなたがホワイトベースに覚えがあるというなら、ガンダムは、きっとあなたにも響くはずだ。


あなたは必要に迫られてホワイトベースに乗り込み、それまでずっと自分だと信じてきた「誰か」になりすまして過ごす。そのうちに船の上での経験を通じて、その自分がただの幻想で、かつての自分を信じていたことが馬鹿馬鹿しく思える。
そして、ついにそれが終わり、「帰る」ことになる。どこへ帰るのかはともかくとして、 そこには、以前と変わらない自分の部屋があり、変わらない場所があり、変わらない人々がいる。でも、あなたはもう同じではない。では、この新しい自分を、かつての自分が慣れ親しんだ場所とどう折り合いをつければいいのだろう?

日本に戻った人も多かった(僕もその一人だけど)。一方で、そうしなくてもいいと感じた人もいた。そういった友達にとって、この滞在は自分がかつての居場所をどれだけ気に入っていたかを再確認する機会となり、元の生活に戻れることを喜んでいた。でも、そうした繋がりが消えることはない。ヨーロッパ中の友達の家を渡り歩いてたのは僕だけではなかったし、昔の友達の写真がSNSにあがっているのを見るたびに、(たとえ何年も話していない相手でも)不思議と「これでいいんだ」と思えた。好きではなかった人たちでさえ、お互いを見つけると、嬉しくなる。何年も会っていなくても、たとえ電話越しであっても、久しぶりに言葉を交わすと、あの平成時代の古びた学生寮で過ごした気持ちに引き戻される。

僕はシャア・アズナブルがそうだったように、あの思い出に囚われているのではなく、「目的を持って生きる」という感覚に囚われている。
ここで初めて彼の名前を出すが、それは、彼のことを書くとこの投稿が彼の話ばかりになりかねないからだ。彼はそれほどまでにガンダムの中で圧倒的な存在感を放っている。

シャアはホワイトベースの一員ではなく、むしろホワイトベースにとって最大の敵だ。「赤い彗星」と呼ばれ、ジオン公国軍のエースパイロットであり、アムロ・レイが唯一恐れる相手だ。シャアは自らの目的のためにジオンの王族内で地位と影響力を求め、敵味方問わず道を切り開いていく。
同時に、彼はホワイトベースとも深い因縁がある。(その詳細についてはここでは書かないし、シャアについての本格的な議論はまた別の機会にするとする。)だが、彼がホワイトベースの人々と関わっていくうちに、彼も次第に変わっていく。「ジオン公国」「地球連邦」「RX-78」などの言葉が70年代のSFっぽくて違和感があるなら、すべて忘れてしまえばいい。彼についてもう一つだけ言うならば、ガンダムを、ホワイトベースとシャア・アズナブルのぶつかり合いとして見てほしい。つまり、他者と共に生きることを選んだ者たちと、己の重要性に囚われ、大人になるための妥協を拒む子供の戦いなのだ。

かつて私はガンダムを観ずに人生を終えても構わないと思っていたし、ガンダムは私と無関係なところにあるものだった。だが今では、ガンダムを観たことがどれほど重要だったか、そしてこの作品なしの人生など考えられないほど、大切なものになった。繰り返しになるが、大人になるとはどういうことかを理解するうえで、欠かせない作品になったのだ。
だから、ロボットのことも、政治的な駆け引きも、70年代の古臭いアニメのタッチも、全部忘れて欲しい。これは、成長を強いられた子供たちの物語だ。ただこのことだけを心に留めてガンダムを観てほしい。そして彼らの前に立ちはだかるのは、20歳にして大人になるための妥協を拒み、永遠に子供のまま生きるシャア・アズナブルという存在だ。
このアニメは、10代の若者にとってのいかに自分が大切であるかということと、容赦ない無機質な大人の世界との折り合いをつける方法を教えてくれるものだ。
そしてそれを自分の中で燃え滾るエネルギーを消えない柔らかな光に変える方法を教えてくれる。SF作品やロボットに対する先入観も、富野由悠季への偏見も、「ガンダムがアニメ業界にとってどういう意味を持つのか」といった考察も、そんなものはすべて忘れてしまえばいい。なぜなら、70年代アニメの作画を理由にガンダムを避けている人は、本当の意味でそういったことを理解していないからだ。
「機動戦士ガンダム」というシリーズものとしてではなく、このアニメをひとつのドラマとして観てほしい。そうすれば、この作品がなぜ今も若者の心に響き続けているのか、きっとわかるはずだ。そして、他のどんな物語よりも成長することを的確に伝えてくれる作品であることも、理解してもらえるだろう。

そして、今、僕はアムステルダムにいる。ホワイトベースで隣の部屋だった友達の家に泊まっている。僕たちの出会いは、ちょっと変わったものだった。成田空港から寮へ向かうバスは、2時間に1本しかなかった。僕は自分のフライトの後に来たバスに乗り、たまたま彼の隣の席に座った。そして、どの寮に住むのか聞いたら、彼は僕と同じ寮だと言った。「いいね」と返し、さらにどの部屋か尋ねると、彼は「3-083」と答えた。「おいおい、僕も3-083なんだけど」「いや、それはおかしいだろ、一人向けの部屋のはずだろ」「知ってるよ。だから8万円も払ってるんだよ、なんてこった」「……は?」そうして寮に着いたときには、雨が降っていた。僕たちの人生を変える幕開けには、ぴったりの天気だった。あとで聞くと、寮の事務局のミスだったことがわかった。どうやら手違いで同じ部屋に割り当てられたようだったが、実際には隣同士の部屋だったらしい。事務局の指示でそれぞれの部屋へ向かい、彼は僕にタオルを貸してくれた。僕はタオルすら持ってきていなかった。「ありがとう」と言い、「よろしくな」と挨拶を交わした。

数週間後、俺は東京ゲームショウに行き、最高の時間を過ごした。千葉のネットカフェで夜を明かし、二日酔いの状態で帰路についた。中央・総武線が海側から人込みの東京へと僕を運び、Googleマップを使わずに初めて寮まで帰ることができた。この週末は漫喫で夜を明かすことになったので、あそこのリクライニングチェアでろくに眠れなかったし、隣のブースの男が激しく自慰行為に励む音をBGMに過ごした最悪の夜の末だった。寮に着き、エレベーターで8階まで上がり、ついに自分のベッドへ飛び込める、そう思った時だった。
キッチンからいい匂いがした。
扉を開けると、隣の部屋にいるはずの友達が朝食を作っていた。オランダの特有のパンケーキで、甘すぎず、しょっぱすぎず、ちょうどいいやつだ。彼は僕を見て笑い、「昨日と同じ服着てるな」と言った。「君が思ってる理由とは違うけどな」と返し、席についた。

彼はパンケーキを皿に乗せ、それを僕の前に置いた。僕はパンケーキを頬張りながら昨晩の話しをする。話している途中で、8階のもう一人の住人が入ってきて、「おはよう」と言い、みんなで朝食をとることになった。コーヒーがとにかく美味い。人生で飲んだ中で一番美味しんじゃないんかってほどに美味い。窓から差し込む朝日が僕の目を直撃し、まぶしくて思わず瞬きをする。目が落ち着いて、視界がクリアになると、友達はそこにいた。この穏やかでささやかな瞬間が現実にあることが信じられない。僕は一体何をしたら、こんな時間を手に入れられたんだろう。まだ1年あると分かっていたが、すでにこの1年を経験できることが待ちきれなかった。
一方のアムステルダムでは、彼の家のバルコニーに座って、ビールを飲みながら語り合う。そこでの会話についてはここで触れないことにする。僕はふと、小学校の図書館で遊戯王を読んでいた子供時代を思い出す。あの頃は日本という国すら想像できなかったし、ましてやオランダなんてなおさらだった。あの頃の僕の世界と今の僕の世界は、完全に別物だ。だって今は、空白を埋めることができる。このバルコニーで、僕は大人になったんだと実感する。望もうが望むまいが、そうなるものだと。

標的を外したアムロ・レイのように。
その結果を背負わされたシャア・アズナブルのように。
ホワイトベースは、一生ついてくる。ガンダムも、一生ついてくる。
君も、標的を外すことになるだろうし、君も、一生変わり続けることになるだろう。
世界は決して元通りにはならない。だけど、そこには必ず君を待っている人たちがいる。君と共にこの世界を生き抜き、変化を遂げた人たちだ。今の君と、決別した過去の自分は、どちらも、彼らにとっては見知らぬ存在だ。彼らが知っているのは、君が変わろうとしていたあの瞬間だけ。時間が止まっているように感じていても、その一方で、確実に去っていくとわかっていた、あの瞬間。それこそが、「機動戦士ガンダム」を観ていたときの僕の気持ちだった。もしかしたら君も感じるかもしれない。・・・・・「ダラダラ続くストーリーだな」とさっさと忘れてしまうのも、君の自由だけど。

翻訳:神原桃子
投稿日:2023年11月21日
日本語版:2025年3月9日
監修:アマスヤ・デニズ