もし好きな映画があるなら、その映画は映画館で見るべきだ。
僕が映画館で一番見たかったのは『エヴァンゲリオン劇場版 Air/まごころを、君に』で、ようやくこの間映画館で見た。

初めて完璧な形で映画を観たって気分だった。
特に映画後半で、映画館で映画を見ている人が映し出されるシーンでは、自分もエヴァンゲリオンについて何かを感じるために、見知らぬ人々と一緒に座っているということ、不快な馴染み深さに、なんとも言えない気持ちになった。

この映画を3、40回は見てるのに、その日初めて見たような、変な気持ちだった。
僕の性格を分かってもらうために、友達、彼女、家族、僕の周りの大切な人にはこの映画を見せてきた。だから、僕のことをよく知っている人なら、必ず『エヴァンゲリオン』の26話とこの映画を最後まで観たことがあるはずだ。
その時に気が付いた。この映画は、一人で見るものではなく、友達と見るものでもない。知らない人と見るものだったんだ。

これこそが、エヴァンゲリオンを理解する上で最も必要なピースだったんだ。他にも、この映画に関する大切なポイントをいくつか挙げると、この映画は「Air」と「まごころを、君に」に分かれていて、テレビシリーズの最後の二話のディレクターズカット版として機能するように作られている。
そして「Air」の終わりには「つづく」の文字が表示される。でもそのわずか5分後には続きが始まるから、最初は混乱するかもしれない。でもここでのポイントは、クレジットが映画のちょうど真ん中に流れるということだ。
これは、エンドロールを最後まで見届けるという日本の習慣に対する挑戦的な試みだ。僕はもうすっかりこの習慣に慣れたけれど、外国人の中には違和感を感じる人もいると思う。その証拠に、この映画を観た日の前日に見たマリオの映画の時、半分くらいの人はエンドクレジットあたりで帰っていた。でも僕は、その仕掛けのおかげで「ENGLISH LANGUAGE ADVISER」としてクレジットされている外国人、マイケル・ハウスに感謝する機会がもらえたと思っている。
このエンドロールが終わるまで明るくならない、この仕掛けこそがこの映画を映画館で観るべき作品にしている。
最初にあの映画を観た時のことを思い出して欲しい。
その頃あなたは十代だった?それとももう少し上の年齢だったかもしれない。
映画が終わると、240pのストリーミングが見られる「怪しい」サイトの広告は近くにいる人妻を紹介するような内容がちらつき、はたまたNetflixで公開されている『鬼滅の刃』の予告編が再生されたかもしれない。
なぜなら、海外においてアニメはすべての作品が区別なくひとまとめにされてしまうからです。
そんな状況であなたは映画を見終わったとします。
あなたはそこに座り、信じられない思いで、もしくはかなり無防備な状態、あるいは怒りに満ちた状態で、一人かもしれないし、もしくは友達と一緒にいるかもしれない。

この映画が日本の映画館で終わった時を想像するとする。
アスカがシンジに向けて「気持ち悪い」って言った後すぐに「終劇」という文字が真っ白の画面の中に照らされる。そして、すぐに劇場の照明が明るくなる。

そうなるとあなたは、すぐ横に座っている人の顔を見るしかない。その人はもちろんあなたの味方で、仲間だ。彼もあなたと同じように『エヴァンゲリオン』について何かを感じるためにここに来たのです。1997年には、それはおそらく何かしらの「終わり」を求めてのことだったかもしれないが、2023年にそれを見るというのは、自己破壊に近いものかもしれない。
いずれにせよ、あなたは『エヴァンゲリオン』に何らかの感情を抱いている知らない人たちの中にいて、それは自分自身にとって意味のある行動になるはずだ。

だからこそ、映画の中で『エヴァンゲリオン』のファンの集まりの中に自分がいることを実感させられるシーンが大切なんだ。
なぜなら自身の存在について何百万倍も直接的に感じられるからだ。まるで庵野監督があなたに自分自身を見つめ直すよう諭しているかのようだ。
僕はそういう感情を特に日本の劇場で観ているときに強く感じる。なぜなら、さっきその映画の画面に映し出されていた人たちと直接向き合わなくてはならないからだ。
この場から立ち去りたいと思っても、残りの20分、周りに座っている全ての人々と一緒に、感情の牢獄に閉じ込められします。カメラは観客を映し、画面には「気持ち、いいの?」という言葉。

碇シンジ「わからない。現実は、よくわからないんだ。」

シンジ、レイ、カヲルは夢と現実について話す。夢とは?それは現実の終わりだ。
じゃあ、現実とは何か?それは夢の終わりよ、とレイは言う。
その会話の合間の1秒という短い間に、ファンレターや脅迫状が画面を横切る。僕はこれをずっとオタクへのメッセージだと思っていた。なぜなら、「夢」は「フィクション」の言い換えみたいなもので、現実から生まれる。そして現実は「フィクション」の後に続くものだからだ。言い換えれば、フィクションは現実から逃げるものではなく、現実と向き合うためのものだということだ。現実よりリアルなものってあるだろうか?
今あなたが座っているのと同じ種類の人々と同じ種類の会場、現実そのものを見つめさせられることよりもリアルなものがこの世にあるだろうか?


この映画を見るたび、泣きたくなってしまう。
今回もこの映画を見ながら泣きそうになったけど、何故か上手く泣けなった。
それはきっと、周りにいる知らない人たちの影響だと思う。
でも、だからこそ、僕は納得いかなかった。ここにいる誰もが『エヴァ』について何かを感じているはずだし、それは共通点になるはずだし、いつもより高い「プレミア価格」で25年ぶりの上映だし、むしろ泣くために条件は揃ってるといえる。
単純に知らない人がいるというだけで、僕は彼らとの間に「ATフィールド」を感じてしまったのだ。
「気持ち、いいの?」
その質問にうなずくことはできない。なぜならここにいる人たちについて何一つ知らないからだ。でも、それこそが庵野監督が僕たちに向き合わせようとしている苦い感情そのものだ。
でもここで泣いたら、「変な奴」としての白い目で見られるかもしれないし、もしかしたら同じ仲間として穏やかな連帯感が生まれるかもしれない。

それと同時に、この気持ち自体が生きる価値そのものかもしれない。
会話すらしたことがない赤の他人でも、僕と同じくらい深いこだわりを持ってこの映画を観ている可能性があるし、それを実感として感じることができる。そして勇気とともに一歩踏み出して、「ATフィールド」を破れば、友達になれるかもしれない。ギャンブルかもしれないけど。
それは映画のラストシーンで、シンジがアスカに残酷なことをしたにもかかわらず、彼女が優しく応えたことと、重なるかもしれない。

この映画を見ることで、初めて「人類補完計画」の意味を理解した。
この映画を一緒に観た人たちと同じ空間を共有しているということは、たとえお互いのことを知らなくても、その90分間だけは、他のどんな映画とも違う形で互いに重なり合い、「補い合って」いたんだ。
「人類補完計画」というのは碇ゲンドウが世界に「たとえ一瞬でいいから、互いを理解してほしい」と願うものだったとしたら、悲しい見知らぬ人たちとして、その場にいた全員が彼と同じ立場に立っていたことになる。
それでも、僕たちはその「補完」を拒んだまま劇場を後にした。そうしなければ、全員で悪夢のようなぐちゃぐちゃの感情を共有して、泣き崩れる羽目になっていただろう。

「気持ち、いいの?」
それに対する答えは、「気持ちよくない」。
でも、知らない人だったからといって、僕は他人とのことを、諦めることはない。

そして僕は、その『エヴァンゲリオン劇場版 Air/まごころを、君に』に染まったままの状態で映画館を後にした。
その映画館は歌舞伎町タワーの10階にある。『エヴァンゲリオン』をテーマにしていて、僕みたいなお客をエサに儲けようとしてるところだ。
坂本龍一が監修したアンビエント音楽が流れるラウンジがあり、スクリーン自体の音響も彼が監修している。

このチケットは4500円もする、「高級映画館」だ。つまり、ここに来ている人たちは相当な熱量を持っているか、裕福なファンであることは間違いない。ここに友達と一緒に来た人もいる。僕と同じく一人で来た人もいる。僕の眼下には東京の素晴らしい景色が広がっていて、それもチケット代に含まれているんだろう。やがて、同じ映画を観たそれぞれがそれぞれの道を歩み、この場所を空っぽにする。みんなそれぞれ、入ってきたときと同じように、出ていきながら、一緒に感じた感情をそっと抱くのだ。

そのビルを出て、新宿の歌舞伎町をふらふらと歩いた。ここは都会で、人が溢れているのに、最も孤独を感じる街でもある。性的で短絡的なものを求めている人以外、この街をうろうろしている人誰もが、運命的な出会いを求めているんだ。
運命的な出会いをすると、世界が永遠に変わる。一方で、その純粋な孤独を食い物にする人たちがいるのも事実だ。安くセックスできることを売りにしている人は、浅草の人力車の客引きと同じくらいいる。つまりこの街に来る誰もが何かを求めていますが、それが何かは誰もはっきり言葉にすることができないんだ。

ギラギラしたネオン、そこら中に溢れるゴミ、日本人とナイジェリア人の客引きたちがあなたを騙そうと躍起になる。パチンコ屋から漏れる音のうるささや、たかだか43人のフォロワーのために東宝シネマのゴジラと一緒に写真を撮ろうと列をなす外国人、高いわりに美味しくない焼肉、二駅西の方が400円安いビール、衝撃的な気持ちよさをアピールするマッサージ店。
ここにいるすべての人と物が、あなたの孤独を搾取しようと狙っている。
そして一番その世界と落差を感じるのが、僕がさっきまで坂本龍一の音響の宮殿から降りてきたばかりで、なおかつ、『エヴァンゲリオン』のエンディングが脳裏に焼き付いているからだ。

10分ほど歩いて、新宿三丁目を目指す。それは留学生として日本にいた時に通っていたビデオゲームをテーマにしたバー「8bitcafe」に寄るつもりだったからだ。そのバーのバーテンダーの直さんに、僕なりの『エヴァンゲリオン』についての思いを聞いてもらうために、飲み代を支払った。いつもと違って一人なので、声をかけてくれた。
「エヴァンゲリオン劇場版に4500円も払って観に行ってくれる友達がいないんだよね」と早速答える。
「それってオナニーのシーンから始まるやつ?」ってと聞かれた瞬間に、ここまで引きずってきた重い気分が急に軽くなるのを感じた。ビールを注文すると、隣の男性が「来月発売の『ブレス オブ ザ ワイルド 2』買う予定なの?」と聞いてきた。「買わないかな」と答えたけど、その時、ふと考える。もしかしたら、そのゲームを買った友達が貸してくれるかもしれない。友達…ああ、なんて幸せなことだろう、なんていい気持ちなんだろう!

翻訳:神原桃子
投稿日:2023年5月3日
日本語版:2025年2月9日
監修:アマスヤ・デニズ