「わからない。もう何もわからない。なんだか、すべてを当たり前に思っていた気がする。矛盾した生き方をしてきた気分だ。この‘存在’というものが、ほつれ始めているみたいだ。大学に入りたての哲学科の学生みたいなことを言うつもりはないけど、なんで僕は生きてる?トロントからの帰りの飛行機で、席に座っている間にパニックになりかけた。どうして、僕たちはこんなものをそのまま受け入れているんだ?なぜ、僕たち人間の文明はこんなに長い間続いているのに、こんな謎を解くために全力を尽くしていないんだ?‘謎’という概念を想像できること自体が、このすべての不条理を物語っている。まるで宇宙が僕を試しているかのようだ。でも、まさにその通りなんだ。すべてがデザインされていて、その予定に沿っているんじゃないかと思う。まるで、これは僕一人だけに向けられた宇宙の仕掛けみたいなものだ。精神科医や神秘主義者がどう言おうが、世界は、自己実現の一環として用意された謎のように感じる。君はいつも、何が起きているのか完全にわかっているように見える。というより、‘生きる’ということに完全にコミットしているように感じる。僕はそれがうまく掴めない。どうして君は、これで平気なんだ?」
彼女はため息をついて、目の前のウィンナコーヒーを一口すすった。クリームが上唇に付いて、それをナプキンでぬぐう。僕の目には涙が浮かんでいて、時計を見ると平日の真昼間、午後3時だった。隣に座っている人たちはローンの申し込みについて話している。彼女は慎重な目つきで、現実と優しさのバランスを取ろうとしているように――少なくとも、僕はそう感じる。
「私はもうこういうことを心配しなくなった。あなたは親しい人が死ぬってことを経験したことはある?それも、実際にその場に立ち会ったことは?私は祖母が死ぬのを見たの、ただ死んでしまったあとじゃなくて、死の瞬間だけじゃなくて、その死に至るまでの期間、ずっと一緒にいて、そのとき、祖母は『実際の死』よりもずっと前に死んでいたように感じた。その過程が家で繰り広げられるのを見てから、あの死の匂いを今でも思い出せる。それに...」彼女はどこか遠くを見るようにしてから、続ける。「ちょっと、違うところに行こうか」

僕たちはカフェを出て、彼女は神戸の元町ショッピング街をサクサクと通り抜けてブックオフに入った。彼女は棚を見て回り、探していたものを見つけると、それをさも決まっていた流れかのように手渡した。僕はすでにそれが答えのように感じた。 「ほら。これ。私が小学校の4年生の時に読んで、あの時私が抱いていたこと、つまりあなたが泣いているようなことを解決してくれた。それ以来私はあの時と同じように思い悩むことはないし、これを読んでからは、あなたみたいに不安になったことはないの。あなたに全部読むべきだとは言わないし、これを額面通りに受け取るべきだとも言わないけど、少しは役に立つかもしれないわ」
それは手塚治虫のブッダだった。

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数千年前、シッダールタという名前の人物が南アジアを歩き回り、何千年後の僕たちが今でも苦しんでいる真実を見つけ出したかもしれない。彼の人生の正確な日付や詳細は不明だが、彼が実在したかどうかは重要ではない。ここでの重要なポイントは、同じ質問が永遠に問い続けられてきたこと、そして僕たちが見つけることのできる答えは、自分の中にしかないということです。
高校のとき、昼休みの間に次の授業に間に合うように、どれくらい遠くまで歩けるか試すことが習慣になっていた。食べながら歩いて、たいていは近所の深い谷に向かって歩いたり、ダウンタウンの方へできるだけ遠く行ったり。帰るのがめんどくさい距離にならないように、だいたい3駅くらいまでだった。僕は自分が仲間たちより優位だと感じる音楽を聴きながら、世界について自分が絶対的に正しいと思うことを考え、家に帰って「本当の自分」が待っているコンピューターに向かうのが待ち遠しかった。「なぜ僕は存在するのか」や「死んだ後どこに行くのか」といった問いは浮かばなかった。なぜなら、この年齢で僕はおよそ不死身だったし、他のティーンエイジャーと同じように感じていたからだ。シッダールタとの共通点は、どちらも世界についてある特定の感情を抱きながらさまよっていることだけだ。
トロントの地下鉄がデイヴィスヴィルとセントクレアを通り過ぎ、世界の中での自分の立場に正当性を感じていた。なぜならいつか自分の番が来ることを知っていたからだ。実際には、そんなふうに高慢になれる理由なんて何もなくて、僕はただの怖がりなティーンエイジャーで、尊大な自分を隠すための大げさな幻想に頼っていた。
僕は何も知らなかった。
高校の図書館にはマンガが一冊しかなく、それにイライラしていた。そのマンガは手塚治虫の『ブッダ』で、誰も触れたことがないかのように綺麗な状態だった。時々めくりながら、「一体誰がこれを読んでいるんだ?」と思っていた。山を越えて歩く坊主たちが描かれているだけじゃないか。どうしてこれがこの学校で読める唯一のものなんだ?「テニスの王子様」や「シャーマンキング」はどこだ?「ふしぎ遊戯」でもいいから。こんなものを読むのは一体どんな奴だ?
そして今、僕はその『ブッダ』を読むヤツになった。

ーーー

僕が泊まっているゲストハウスで、斜め前に寝ている男がコロナにかかってるみたいな咳をしているけど、僕にはもはや聞こえない。すでに涙が出るほど『ブッダ』の最初の20ページに打ちのめされているからだ。病気の旅人が地元の動物たちに助けられる。クマは川から魚を持ってきて、キツネはブドウを持ってくる。ウサギは探し続けるが、旅人に提供できるものを見つけられない。旅人は力を振り絞って火を起こし、ウサギはその火の中に自分を投げ込み、唯一できることを差し出す。それは自分の肉、そして命そのものである。
僕には分からない。これらの20ページに描かれた世界の法則は、読むのがほとんど痛みを伴うほどで、間違いなく鋭利だ。ウサギの犠牲を個人的に理解することはできないけれど、言葉にできない形で理解することはできる。僕はただ、分からないんだ。
僕は一体ここで何をしているんだろう?僕は神戸に住んでいるわけじゃないし、僕の存在に対する恐怖のせいで、彼女に会いに来てもらったんだ。よく分からないけど、いろんなことが一気に重なったんだ。カナダに帰省した時に、両親の引っ越しを手伝った。その中には、かつて僕がいろんな人生の段階で落書きしていたものを捨てる作業も含まれていた。古いノート、端に描かれたキャラクターたちが書かれている数学の宿題、そのキャラクターたちの名前すらもう忘れてしまっている。それから、僕が残したわずかな所有物を「安全のために」売り払った。トロント、カナダには僕の痕跡はもう何も残っていない。残っているのは、数少ない友達の記憶の中の僕だけだ。歳をとるにつれて、両親も人生の後半に入り、彼らの生涯の半分とも言える物たちを手放すことになった。去っていくのを見るのは悲しいけど、僕たちは何も持たずにこの世界に生まれ、何も持たずに去っていくんだ。
帰国して東京に戻ると、僕は一種の麻痺状態に陥った。ベッドから出る理由は、必要にせまられたトイレだけで、そのわずかなやる気に任せてキッチンに行き、最低限の食事を作るだけ。体重が減り、まともに考えることもできず、外に出ることが恐ろしい。僕は死ぬんだろうな・・・・。クソが。つまり、それは僕が生きているということだ。気まずさと不安を感じるが、そういった感情そのものにも怖さを感じている。ベッドが僕を食い尽くし始め、気づけばもう死んでいるような気がする。
そこで、この国で僕を自分の存在に繋ぎとめてくれる唯一の人物に電話をかけた。そして、どんなに些細な心配事でも、どんなに馬鹿げていても、決して僕を嗜めないことを知っているその人に、同じ日に会えるかどうかを聞いた。最小限の荷物を持って新幹線で神戸行きに乗ることにした。どれくらいの時間がかかるのか、どこまで行くのかは分からない。ただ、毎秒毎秒決断を迫られるような状況に身を置かないと、この感情に負けてベッドに縛られたままになってしまうことだけは分かっている。

ーーー

「なんか、無邪気さを失った気がする」
「信じて、あなた無邪気すぎるくらいだよ」
カラオケでは広告がループで流れている。僕は普通でいようと The Pillows の「Patricia」を歌ったけれど、また涙が出てきた。心の中に虚無にうなされた少年の姿がある。よく見るとそれは僕の若い頃で、高校生の頃、世界に対して恨みを抱えていた。
「もうこの歌、歌えない気がする。なんか歌ってはいけないような気がする」
「大丈夫だよ、歌は変わってないよ。あなたの気持ちが変わっただけ」
「それが分からないんだ。なんか僕の中で、何かが変わった気がする、初めて、僕が死ぬってことを実感してるんだ」
「みんなそうだよ」
「それが怖いんだよ。君は怖くないの?」
「私はただ、痛くないことを願ってるだけ」
「どう考えていいのか、どう感じるのかすら分からない...」
「それがその一部だよ」
「ありがとう、僕のためにいてくれて」
「大丈夫だよ。私は自信を持って言える。あなたがここにいるってことは、あなたの中にもう答えがあるってことよ」
「そう思う?」
「間違いなくそうよ。こう感じるのは自然なことだし、あなたはいつも勇気がいることをしてるでしょ。両親のそばにいられなくて寂しいんだよね?」
「いつも」
「それでもあなたはここにいる。それはつまり、あなたが生死についてすでに決断を下して生きてるってことよ。もっと自分に誇りを持って。あなたみたいに頑張れる人は少ないんだから」
「多分そうかもしれないけど、まだすごく怖いんだ。」
「みんな怖いよ。でも少なくとも、私たちは一緒にいるよ」

ーーー

翌日、僕は特に理由もなく京都に行くことにした。関西に来たからには京都を見ていかないのはもったいない気がしたからだ。大阪に住んでいる友達に電話をかけて、三条で会おうと言った。彼も僕を見て驚いていて、僕もここにいることに驚いていた。事情を説明すると、彼はビールを僕たちの体重分飲むことに同意した。金曜日の夜だし、当然だろう。
「つまり、君は自分を見失ったってこと?」
「そうだね、いわゆる自分を見失ったってやつ」
「じゃあ、これからどうする?」
「本当に、僕には関係ないんだ」
「じゃあ、幸せじゃないってことか?」
多分、幸せでいるべきなんだろうけどね。
真夜中になり、彼は明日のデートに必要な物を取りに帰らなければならないと言い出す。僕たちは週末を寝て過ごすには十分すぎるほどアルコールを摂取していたが、僕は彼をタクシーに放り込み、京都のらんらんと照らされた夜をぶっ壊すように歩き続ける。まるで『夜は短し歩けよ乙女』の存在論的な狂気のバージョンのようで、かわいらしさや愛らしさとは程遠い。Instagramをスクロールして何かを探し、好きな東京のバンドが2時にクラブでライブをしていることに気づき、川沿いをぶらぶら歩いて行った。彼らは会場を盛り上げ、ライブ後に挨拶すると、みんな驚いていた。「ここは京都だよね?」と。僕は笑ったけれど、正直言って自分が彼らや他の人たちに何を話したかは分からない。次に気づいたときには、足元の地面に再び繋がりたい一心で、大切な人たちに電話をかけていた。
今は午前4時くらい。僕はファミリーマートの温かさの中で、僕に電話をかけてきて欲しくないであろう相手に電話している。そして最終的に店員が勇気を出して、帰れと言ってきた。僕は必死に頼み込んだり、人間性に訴えたりしたが、ダメだった。
その後、ホステルの小さなベッドで目を覚まし、窓から日の出をちらっと見る。窓辺で『ブッダ』が僕を待っている。携帯電話には、最後に誰かと交わしたメッセージが残っていた。
「そっちで頑張ってね」と言われる。 「頑張ってるよ」と僕は返した。 「それがあなたのできることの全てだよ」と言われた。 本当に、いま、これが僕のできる全てなんだ。
僕は完全に二日酔いでどこにも行ける気がしないので、京都でさらに24時間回復に費やすことに決めた。鴨川を歩きながら、初めてここに来たことを思い出す。その時、まだ「観光客」と呼ばれる初心者だった頃のこと。京都はこうした観光客で溢れる街だが、時折、僕は東京に初めて足を踏み入れたときと同じ感覚を覚える。自分の存在、まだ来るべき自分の痕跡、そして前に広がる未来を感じる

18歳、新宿の横断歩道にいた。日が沈み、街が暗くなり始める。東京が夜に染まり、すべてが紫の色合いに変わる。初めて一人で旅行をしていて、実際には人生で初めて本当に一人でいることになる。高層ビルの上に沈みゆく太陽を見ながら、自分の中で何かが動き始めるのを感じる。ここに書かれているすべてを読むと、僕がバカみたいに子供の頃から日本に移住したいと思っていたわけではないことを知ってもらえると思う。しかし、ここで横断歩道を渡ると、本当はやりたいと思っていたんじゃないか、そんな気がしてくる。18歳、何もできない。ただ存在することしかできず、僕はそれを必死にやっている。

シッダールタはカピラヴァストゥの城の外を恐る恐る歩きながら、放浪のタッタに出会う。タッタは粗暴で暴力的だが、シッダールタは、タッタが本性に忠実に生きていることを羨ましく思う。タッタはそれを恥じることなく、まだ世俗物や人間関係を手放せず、まだ目覚めた者(仏陀・ブッダ)と呼ばれることのない王子に親切だ。シッダールタにとって、世界は幻想を超えた、未知で恐ろしい空虚でしかない。

ーーー
ワッパー・ウェンズデーのセットにかじりつく。高校生の僕は突然、なんだか変な感じがして、ドラゴンボールの悟空がルフィに勝てるか話している友達の声が聞こえなくなった。手に持っているのは、安くておいしいワッパーだが、このために死んだ牛もいる、なんて。面倒で明らかでうぬぼれた考えなんだろう。それから、僕は友達に「悟空がルフィを倒すに決まってる」と言う。
これから何千年も前に僕を作った粒子たちは、すべてが終わる時に交じり合い、その形をとったことのない身体や、かつてこの投稿をした人間が存在していたことなど認識できないほどになっている。そしてその人間が書いたこの投稿も、おそらくもう塵になり、地球、星々、そしてその間のすべてと共に消えている。シッダールタという名で呼ばれたかもしれない人間も、仏陀も、ましてや手塚治虫という人間も誰も覚えていない。なぜなら、最初から人間など存在しないからだ。僕たちの宇宙の隅で、すべては静止していて、僕は無意識のうちに無の方へと漂っていく。
今週もワッパー・ウェンズデーのハンバーガーはおいしい。

ーーー
タクシーの運転手が「物理的に不可能だから、直接宿に行けない」と言う。京都から尾道への早朝の電車でぼんやりしていて、どういう意味なのかわからない。
「え?物理的に不可能?」
「物理的に不可能です」
「それはどういう意味ですか?」
「歩いてしか行けないんです、その階段を上がってください」運転手は車を停めている場所の左に見える、終わりの見えない階段を指差していた。
「じゃあ、回り道とかできませんか?上の方に行くとか?」
「いいえ、できません」
「じゃあ、登らないとダメなんですか?」
「はい」
窓の外を見ると、まだ雨が降っている。運転手に半ば懇願するような顔をするが、何もできないことがわかる。700円を支払い、スーツケースを引きずりながら300段(マジでそれくらいあった)の階段を登り始める。
この宿を選んだ理由は景色が良かったからだが、宿のサイトには、建物が100年前のものであるため、便利な設備はなく、防音設備もないと書かれている。「寝付きが悪い方は再度お考え下さい」と、楽天トラベルのページには書かれているが、あの死にそうな階段については何も書いていなかった。
到着して、迎えに来てくれた従業員は僕が疲れていることを察して、すぐ近くに車をつけられる駐車場があることを教えてくれた。その時、タクシーに携帯を忘れてきたことに気づく。
従業員がタクシー会社に電話をかけてくれている間、僕は紙製の地図を見て、尾道をできるだけ早く理解しようとしている。従業員がやって来て、水辺にある「人が集まる場所」を指し示すが、実際にそこに行ってみると、そこは商店街に点在する店を行き来する老人がいるだけだった。夕食を食べる場所を探し、角を曲がると、「小料理屋」という看板を見つける。Googleマップで調べると、これは「おじいさんに一定の金額を払うと、彼が気に入ったものを持ってきてくれる」という意味だとわかる。最高のレストランだ。
店に入ると、彼はすぐに席から立ち上がり、僕に一人かどうか尋ねる。
「日本語大丈夫ですか?」
「はい、大丈夫です」
「ああ、よかった」彼は言葉の壁を越えるのが面倒だから外国人をお断りすることが多い、と説明してくれた。彼は恥ずかしそうにビールを注ぎ、僕の日本語を褒めてくれる。いつものように会話を交わす--どこから来たの?カナダ。わお!トランプどう思う?悪いやつだな、ええ。グリーンランドの話はどうだ?グリーンランド、そうだね。大変なことだ。
そして、「尾道に来た理由は?」
「わからない」PS4の「龍が如く6」で初めて尾道を知り、いつか実際に来てみたいと思ってたとは恥ずかしくて言えない。
「でも僕の店に来たんだ。ちょっと感動したよ」
「看板を見て選んだだけです。デザインのセンスが良いなと思って」
「この古い看板か?」
「うーん、古い感じがしたから選んだんです」二人で笑う。
「そういうレトロなものが好きなんですか?」
「レトロと言うよりは、むしろ古い世界の名残みたいな感じですね」
「どの古い世界から来たの?」
「27歳です、1997年ですね。アナログの世界をまだ覚えています、こうなる前のこと」
「27歳!もっと年上だと思ったよ。見た目がどうこうじゃなくて、雰囲気がそんな感じだったからね」
「よく言われます」
会話は話題を何度も変えながら続いていく。彼はデジタルの世界が好きではなく、PayPayを使おうと頼まれても現金しか受け取らない。なんでそんな余計なことを学ばなきゃいけないんだ、紙の方がずっといいだろうと言う。彼は僕の祖父と同じ年に生まれ、80代前半だと教えてくれた。孫が僕より少し年上で、四人の子供を持つ孫娘もいるから、彼は曾祖父になっている。そこで僕に「尾道に何しに来たんだ?」と聞いてきて、すべてが口に出る。
「わからないです。死ぬのが怖くなって、ただ電車に乗っただけです」
「うん、そういうことはみんなあるよ。俺の親父も80で亡くなったけど、今俺がその年になってみて、時々汗が出る。でもさ、孫ができてからはそのことを考えなくなったんだ。孫の顔を見たら、死とかそういうの、全く頭に浮かばなかった。それから彼らが大人になって、今度はひ孫を見ると、また同じように感じるようになった。答えはその中にあるかもしれないね」
「僕もそう思います」と言いながら、実は最近『機動戦士Vガンダム』を見て、子供についてそう思い始めたところだったから、心に響いた。ロボットアニメにしか反応しない自分が情けないけど。
「でも君はここに来て、頑張ってるんだろ?今、俺たちはこうして会話してるじゃないか?君みたいな外国人がこんな俺の日本語を理解してくれるなんて面白いな」
「ちょっと暇すぎて勉強しすぎちゃったんだ」
「謙遜するなよ」彼は僕にさらにビールを注ぎながら言う。「正直なところ、こういう時、孫たちを見ているのと同じような気持ちになるんだ。誰かが必死に人間を理解しようとしているのを見ると、なんだかこの国の希望を感じるんだ。孫たちを見ても同じように感じる。未来ってやつが、君の目の前にある」
「わからないけど…」
「でもわかってるだろ。今日はここに来たんじゃないか?俺の店に入ってきて、こんな風にいい話をした。君の中には、まだ足を動かして、こんな古い看板の店で俺みたいな年寄りがやっている店で美味しいものを食べたいって思う何かがあるんだ。それだけで十分じゃないか?」 僕はただ彼に微笑み、そして自分の祖父のことを考える。彼は僕を見てこんなことを思っているんだろうか?僕は彼から遠く離れていることに罪悪感を感じ、その気持ちを奪っていることに申し訳なく思う。シッダールタが人類を救うために家族や人々を捨てたことが理解できないけれど、もしかしたらそれはあの焼身自殺したウサギと同じ気持ちだったのかもしれない。
支払いをしに立ち上がると、彼に「PayPay使えますか?」と聞くと、二人で笑った。ドアのところで、もう一度お互いを見つめ合い、彼はこう言った。
「頑張れよ、坊や」
彼の目には暖かさがあり、一瞬言葉が出なかった。そして、いろいろな中途半端な考えが口からこぼれ出てしまった。
「頑張ります、ここが好きだから。自分のためにも、あなたのためにも、あなたのひ孫や世界中の子供たちのためにも頑張ります。約束します、ほんとうに」
彼は長い間僕の手を握ってくれた。私たちはお互いに名前を聞かなかった。

ーーー
 瀬戸内海は黒く、まるでそこに存在しないかのように見える。遠くで船の汽笛が響く。
わからない。もう本当にわからない。僕はそれを当たり前のように受け入れている、誰もがそうするように、だってそれが当たり前だから。世界全体が自己実現する真実そのもので、こんな簡単なことを書くことさえ、君は目が回りそうになるかもしれないけど、君もわからないんだ。わかってるふりをするのは無責任だ。それから、あのおじさんの顔を見ていると、すごく永遠で当たり前のように感じる。まるで彼はずっとこの年齢だったかのように。そして、僕がおじさんくらいの年齢になったとしても、今自分の年齢を実感しないのと同じように、年老いたとは感じないだろう。世界のすべてがずっとそこにあったし、これからもずっとあるように思える。たとえ誰もが疑いようもなく知っているとしても、それが間違っているとは思わない。たくさんの偶然があり、たくさんの危険なシナリオがある、最も直近のものは、明日太陽が昇るかどうかということだ。
「でも、毎日ちゃんと昇るよ」トロントの友達が、僕がこういった不安を口にしたときに言った言葉。彼女の何気ない言葉に、すごく安心した。もちろん、太陽は昇る。
遠い昔、父はアメリカでの勉強を終えて帰国した。インターネットもなく、誰とも簡単に連絡が取れない時代、トルコへの帰国は日本に移住するのと同じくらい新たなスタートに感じられただろう。そこには残酷な虚しさがあった。変わらない場所、変わらない人々、それでも何かが確実に違っていた。彼がいない間に確実にこの場所に痕跡が残っているのに、もはやそれを「家」と呼べるものではなくなっていた。
父はそのすべてに意味を見出すために街を彷徨った。新卒のエンジニアは仕事を見つけられるが、その仕事が高給でやりがいがあるかどうかは別の問題だ。とはいえ、人生は続き、父はその中でベストを尽くしていく。仕事を見つけ、最終的にはもう少し楽な職に就き、良い女性に出会い、ちょうどいい交友関係を築く。
そんな偶然の瞬間を超えて、すべての意味を見つけるために、単純な決意がある。アメリカに行った意味は何だったのか?結果的として、こんな虚しさだけが残ったのは間違っているはずだ。だって、アメリカでの学びは希望に満ちていたのだから。父は当時、僕よりも若かった。僕が悩んでいるような質問がその頃、シッダールタにとっても同じように爆発的に湧き上がったのだろう。
その年齢の父は、妻はおろか、地球の隅っこに足を踏み入れるような息子ができることなど、全く想像していなかった。日本なんて、ただの概念として存在する場所で、ただ「Made in」の後に続く言葉でしかなかった。父にとって、まだ父親でない頃には、意味を見つけるための「行為」だけがあって、それが他のすべてを解決した。
でも、僕は父親としてしか父を知らず、これからも父親としてしか知ることはない。若い頃の父の写真を見ると、僕はハムレットがヨリックの骸骨を見つめるシーンのような気持ちになる。かつて存在していたが、もはやどこにもいない誰か。ああ、もし僕がハムレットのような例えを使っているなら、たぶん本当にやばい状態なんだろうな。
瀬戸内海の真っ黒な夜の中、再び薄暗い階段を上りながら、その途中で墓地を通り抜ける。仏像の一つが目に入り、その顔をじっと見つめる。僕は宗教的な人間ではないし、これは『ホームアローン』で主人公が真夜中に教会に走っていくシーンと同じようなものだろうか。あるいは『フェリスはある朝突然に』のように、絵画を見つめすぎてその後に何かが深く変わったかのような気分かもしれない。もしくは、シッダールタが説くすべてのことに深く繋がる感覚を感じたくて、あらゆる瞬間を再現しようとしているのかもしれない。
でも、結局僕が考えるのは父のことだ。僕がここにいる理由の半分を作ってくれた父のことだ。どうして父はここに誰かを連れてくることができると思ったんだろう?どうして父は僕をこの世にもたらしたんだろう?この旅行の1週間前に父と電話したとき、目標を立ててそれを超えていくことが大事だと言っていた。そして、ある日、もうやることがなくなったとしても、それで大丈夫だとも言われた。それが人生だ、と。
写真の中の父はとても幸せそうに見える。僕もいつか、そうなれることを願っている。

ーーー
バラモンはシッダールタに言った。すべての生き物(つまり人間や動物だけでなく、植物も、ということだ)は同じ生命の源から生まれ、最終的にはそこへ戻っていくと。僕たちの身体を構成する粒子は、宇宙の中で再利用され、僕たちの地球を引き継ぐ者たちのためにエネルギーへと変換される。自然も、宇宙も、現実そのものも僕たちであり、僕たちはそれである──そう語るのは、シッダールタの幻の中に現れた、裸で口ひげを生やした老人だった。
この文章を書いていて気づいたのは、僕が自分の旅の中で「関係ない」と判断した出来事を無意識に省いていたということだ。でも、それはどのようにして「関係ない」と決めていたんだろう?このブログを今の形で書くのはこれが最後になる予定だった。なぜなら、僕はすでに同じことを繰り返し書いていると感じていたから。でも、そもそも終わりのないものをどうやって締めくくればいいんだろう?テーマは僕の人生だし、僕はまだ生きている。たぶん、この「終わり」を求める気持ちこそが、僕に存在の不安をもたらした原因なんじゃないかと思う。だって、次に自然と出てくる思考の流れは「死」なんだから。僕が自分の人生の中で、どの部分が文字として残すにふさわしいか、どれが意味があるか、を選び始めた時点で、このプロジェクトは矛盾を孕んでいたのかもしれない。
つまりこういうことではないか。僕は、たった2週間の間に、日本各地を列車で巡りながら、本当にいろんな人たちと価値あるつながりを持つことができた。僕は、自分自身についてたくさんのことを学んだ。もしかしたら、それは他の人たちがもっと若いうちに、もっとシンプルな方法で気づいていることかもしれない。そして、この投稿に出会った彼らの本名や職業を載せていいかと連絡を取ったら、みんな快くOKしてくれた。でも、考えれば考えるほど、彼らとの思い出は僕だけのものなんだ、と思うようになった。たまに覗いてくれる数人のためにその情報を共有する必要はないと感じた。深いつながりや経験を、ただの「ネタ」に変換するという発想そのものが、どうにも納得できなかった。僕が福岡でどんな楽しい小さな冒険をしたかを読んでも、たぶん君たちは「もう知ってる」と思うだけだろう。
それでも、僕は福岡のことを書く。なぜなら、この全ては僕のためのものだから。
僕と友達を含めた3人は、とある公園に座っている。友達にとっては初めての日本酒だったから、「オーゼキ ワンカップ」を選んだ。これは、全国のおじさんたちに人気のあるお酒だ。ここにいる彼らとは前日のライブハウスで出会った。昼間は仕事をして、夜は音楽活動に打ち込む若いカップルだった。彼の演奏スタイルが、「DNA」のアート・リンゼイの影響を強く受けていると僕が当てたことで、すぐに意気投合して、天神のどこかで一緒に飲んだ。「なんでこんなところまで来たの?」と聞かれる。旅の間、どこへ行っても必ず聞かれる言葉で、住んでいるところから遠くなればなるほどその口調は心配度を増す。
「僕にも分からない。でも、君たちに出会うためだったのかもね」と答えると、3人で笑い合った。日本酒はまずい。でも、そのまずさが楽しい。
夜の街を歩き回り、福岡名物の屋台に入る。左右に座った人たちと話し、店主のおじさんが出してくれる料理を楽しむ。音楽のこと、夢のこと、これからのことを話す。世界が、とても、とても大きく感じられた。
僕がアート・リンゼイを知っていたのは、友人がドリームキャストの「Dの食卓2」というゲームの大ファンで、そこに彼の曲が収録されていたからだ。そのゲームを僕もプレイし、アート・リンゼイを調べ、すぐに好きになった。彼がいたバンド「DNA」は、アートとロビン・クラッチフィールド、そしてドラムの森郁恵というメンバーで構成されていた。僕は一度、東京で森郁恵と、ボアダムスのドラマー・ヨシミ、そして20世紀後半のアヴァンギャルド歌手・Phewのライブを観たことがある。
そして福岡。僕たちはクラブに流れ着き、ちょうどそのタイミングで、PhewがDJをすることになっていた。2人とも彼女を知っていて、3人でめちゃくちゃ盛り上がった。急いで中に入り、Phewのアンビエントセットをじっと聴く。踊れない音楽。でも、身体ごと受け止める。
気づけば夜が明けていて、僕たちは別れを言い合う。東京でまた会おうと、いろんな約束を交わしながら。長い、長い別れだった。
帰りの飛行機で、僕は『ブッダ』を読み進めるのを忘れていた。

ーーー
「釈迦の伝記に登場する多くの人物や要素は、まったくの創作です」と、手塚治虫は後書きで淡々と述べている。事実とフィクションの境界を明確にするためだ。その物語の多くが虚構であることに、ある種の読者は失望するかもしれない。でも僕は、読み終わるころにはシッダールタのことではなく、手塚治虫という実在の人物のことばかりを考えていた。彼は、業界のあり方や、何世代にもわたる作家たちの創作スタイルに影響を与えた人だ。アニメやマンガの大ブームは彼一人の功績ではないが、無視できないほど大きな存在であるのは間違いない。
僕は、彼が起こした影響を受けた作家たちが、正体すら知らないうちから夢を追っている様子を想像する。僕もまた導かれてここに来た。半世紀以上離れた場所から。
ブッダは忠実な弟子アナンダの方を見つめる。アナンダは、死後に人はどうなるのかと、最後の質問を投げかける。シッダールタは微笑み、その問いを少し愛おしそうに受け止めながら、芋虫が蝶になるようなものだと答える。それは自然な変化でありながら、芋虫自身には理解し得ない変化でもある、と。僕たちもまた、いつかこの身体を超えて、全く別の存在へと変わるのかもしれない。そして、それは今の僕たちには理解できないものなのかもしれない。アナンダはその言葉に、ある種の安らぎを見出す。
いつか残されるのは、ただの繭だけになる。
たぶん、僕は死んでいった人々の繭を崇拝している。もししっかり考えるなら、このブログを始めたきっかけは、僕自身や世界への見かたが揺らいだ、高橋和希の死だった。講義室でトルストイやドストエフスキーを語ろうが、カードゲーム漫画の深層を狂ったようにブログで探ろうが、本質は同じだ。つまり、僕たちは皆、自分の流れと交差する他者の流れをどうにか理解しようとしている。それだけのことなんだ。
本当に大事なのは流れだ。いわゆる「時の流れ」ってやつ。
僕の両親はずっと幼い頃に出会った。場所は、より豊かだった時代のトルコにある、両親の家族が持つ夏の別荘だった。別荘は海辺にあって、両親の親(つまり僕の祖父同士)はみんな同じ業界で、同じ小さな町で、同じような人々の輪の中で働いていた。僕の両親はそこで出会い、海辺で一緒に過ごした記憶がふたりの最も古い記憶になった。
大人になって、人生の流れが再びふたりを引き合わせ、ふたりは結婚して、カナダのオンタリオ州、内陸にあるトロントで子どもを持つことにした。
その子ども、つまり僕に付けられた名前は、ふたりの大切な記憶に基づいている。いつもそこにあり、いつも見守っていたもの、それが「海」だった。トルコ語で「海」は、僕の名前になった。
僕は小さい頃、自分の名前が好きじゃなかった。他の子たちと違っていたからだ。違うってことを、毎日のように僕に思い知らされた。でも大人になるにつれて、自分の名前がユニークで、すごく個人的な意味を持っていることを理解して、だんだん好きになっていった。
でもその後、僕は国を移り住んで、僕の名前は発音も綴りも、人によってバラバラになってしまった。今では、どれが「正しい」発音なのか、自分でもよくわからない。
このブログを書き続ける中で、他人の名前や彼らの作品、国や名所の名前なんかはよく書いていたのに、自分の名前だけは書いたことがなかったことにも気づいた。僕は意識的に、自分の名前を物語に登場させることを避けていた。すべて僕の話であるにもかかわらず、文章の中に隠れていたんだ。
もしかすると、僕が「遊戯王」を好きだったのは、あの作品も僕の名前みたいに変わった名前をしていたからかもしれない。
もしかすると、このブログの目的そのものが、自分の名前をそのまま書く勇気を持つためだったのかもしれない。
僕の名前は「海」、トルコ語で「デニズ」。
僕の人生の潮流は、海を越えて、日本という国へと僕を導いてくれた。そこでは手塚治虫のような人たちが、目に見えない何かを動かしていた。
そして今、たとえ小さくても、僕が自分について世界へ向けて発信することで、きっと何かを動かしているんだと思う。
これを読んでくれているということは、
僕の波が、君に届いたということだ。
僕はここにいる。
君はどこにいる?




翻訳:神原桃子
投稿日:2025年4月20日
監修:アマスヤ・デニズ